■この映画のストーリー
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どこの都市にもありそうな車道トンネルを、いろいろな悩みやバックグラウンドを背負った人々が、狭き入り口から人間の抑圧された性的欲望と不安を扱ったオーストリアの作家シュニッツラー(Arthur
Schnitzler, 1862-1932)の極めて心理学的で風刺に富んだ中編小説 Traumnovelle(1926)に出会ったキューブリック(Stanley
Kubrick, 1928-1999)は、1960年代の後半から1970年の初めにかけて繰り返し、この作品を映画化したいと周りの人々に語っていた。1971年に
A Clockwork Orange の公開のための準備を進めていた Warner Brothers も、キューブリックの次回作品はシュニッツラーの小説を取り上げると発表したほどである。しかし、実際には
Traumnovelle には手がつけられないまま、イギリス人作家サッカレー(William Makepeace Thackeray,
1811-63)の小説 Barry Lyndon の映画化が行われ、シュニッツラーの件は宙に浮いたままとなっていた。やがて30数年の歳月が流れた1994年の春になって、ようやくキューブリックは脚本家の
Frederick Raphael に Traumnovelle の脚色を依頼、Warner Brothers も1995年12月に
Eyes Wide Shut を制作すると発表した。
キューブリックが脚本の共同執筆者として Raphael に白羽の矢を立てた理由は幾つかあった。それは彼が物語作家としての一流の力量
と、現代の性のモーレスをスマートに、しかも軽妙なタッチで描き出す手腕、そして何よりも難解な文学作品をスクリーンに写 し換える豊かな才能のゆえにであった。その確かな証拠は、ロマンティックな映画
Darling(1965)やイギリス人作家トマス・ハーディ(Thomas Hardy, 1840-1928)原作の映画化作品 Far
from the Madding Crowd(1967)、同じくイギリスの女流作家アイリス・マードック(Iris Murdoch,
1919-)の A Severed Head(1971)、それにアメリカ生まれのイギリス人作家ヘンリー・ジェームズ(Henry
James, 1843-1916)の Daisy Miller(1974)などに見ることができる。キューブリックの狙いは見事に的中した。シュニッツラーの小説を一読して、いささか古めかしいと感じた
Raphael は原作から「埃」を振り払い、20年代のウイーンから20世紀末の退廃的な雰囲気を漂わせたリアリスティックなニューヨークへと舞台を移し替え、今日の観客の感性に応える背景を創り上げたのである。
映画は若くてハンサムなビル・ハーフォード医師と美しい妻アリスが、ビルの患者の1人である富裕なニューヨーカー、ビクター・ジーグラー主催のクリスマス・パーティに出かけるところから始まっている。2人はそそくさと身支度を終えるや、1人娘のヘレナとベイビーシッターに別
れを告げて家を出る。アップタウンの優雅なパーティ会場にはニューヨークを代表するような上流階級の人々が集まっている。至る所で交わされる社交上の笑みと会話。ビルとアリスはそうした風景の中に見事に溶け込み、流れるように彼らの間を動いていく。やがて2人は大きな集いのうねりの中で離れ離れになる。ビルは2人の魅力的なモデルに囲まれ、彼女たちとの刺激に富んだ会話を楽しむ。一方、アリスは近づいてきたドン・ファンとドラキュラを思わせるハンガリー人の紳士に誘われ、彼の腕に抱かれてフロアを滑るように踊り始める。だが、ビルは2階でしけこんでいたジーグラーから急用で呼ばれたために、またアリスは自らの意志で誘惑を断わって、その夜は何事もなくパーティ会場を後にする。
翌日の夜、2人はマリファナを吸いながらパーティでの出来事をきっかけに議論を始める。アリスはビルが突然いなくなったのは、2人の女性と何かあったからに違いないと疑っていた。彼は彼女を愛しているから他の女性には全く興味はないし、彼女が彼に忠実であると信じているため、彼女が他の男から誘われたとしても嫉妬などはしないという。その言葉を聞いた彼女は、失笑し、もし女性が心の底で本当に考えていることを知ったらショックを受けるだろうと彼に伝える。実際、彼女はビルに彼の世界を大きく揺るがすような話を語り出す。昨年の夏、一家で出かけた旅先で、アリスは一瞬目が会った若い海軍将校に心を激しく揺さぶられ、彼と一夜を過ごすことができるなら、全てを投げ捨ててもいいと思ったと告白する。ビルが狼狽し、言葉を失ったとき、彼の患者の1人が死んだとの連絡が入ったために彼はすぐさま家を飛び出していく。だが、弔問に出かけた後も、彼の心に焼きついたアリスの言葉がことあるごとに彼の脳裏に蘇ってくる。誇りを傷つけられたビルは、彼女に仕返しをしたいと思い、深夜のニューヨークの街を彷徨い始める。彼に声をかけてきた若い娼婦のアパートを訪れた後、医学校時代の旧友から秘密のパーティを聞きつけると、レンタル店でマントと仮面
を借りてタクシーでその場所に乗りつける。彼が無断で忍び込んだ広大な屋敷でのパーティには、仮面 とマントで身を包んだ男たちと、生まれたままの姿に仮面を被った女たちが大勢集い、あらゆる性の快楽に耽っていた・・・。
キューブリックの描いたこの現代の叙事詩的物語の主人公、ビルとアリスは一見どこから見ても完璧な夫婦だ。彼は裕福な患者の医療アドバイザーとして家族に何不自由のない豊かな生活を保証している。豪華なマンションに住み、壁のいたる所には豊かな緑の樹木や植物、そして動物の絵画が飾られ、まるで今日のエデンの園の幸せなアダムとイブといった趣を見せている。だが、こうした一点の欠陥もないように見える夫婦にも長い結婚生活の間に、目に見えない大きな歪みが生じていたのだ。映画のクレジットの直後に衣服を脱ぎ捨てるアリスのショットと、その同じ場所でパーティ用の衣装に身を包むビルの最初のショットは、2人の現在の心の在り様の違いを我々に教えている。いうまでもなく、衣服を脱ぎ捨てる行為は感情の吐露、すなわち告白を暗示し、衣服で身を包む動作は心理的遮蔽を象徴するものだ。安楽な楽園の中で荒波を立てることなく無垢のままでいたいと願う彼に対して、エデンの園のイブさながらに、アリスは居心地のいい楽園の中で次第に落ち着かなくなり、物事の表面
の下にある真実を、意識下に眠る危険な知識を求めたくなったのだ。白熱した議論の最中にビルに向かって吐き捨てた Why canユt
you ever give me a straight fucking answer? という怒りの言葉は、アリスを見もしないでいい加減な返事をしたり、陳腐でありきたりの答えしかしないビルの
eyes wide shut な姿勢を非難したセリフであり、たえず eyes wide open でいて欲しいと願う彼女の心の叫びでもある。そして彼女のこの切ない望みが叶うのは、ビルが2日にわたる暗黒の世界の放浪を通
して、昼間とは全く違った顔を持つ深夜の街や、人間の醜悪な真の姿、あるいは死の恐怖の体験を通 して初めておぞましい現実を知り、アリスの枕元に置かれた仮面が暗示する
good doctor、good husband、good father としての仮面を脱ぎ捨てるまで、時を待たねばならなかった。
1996年の11月4日から、推定2000万ドルでビル役にトム・クルーズを、同じく推定500万ドルでアリス役にクルーズの妻ニコール・キッドマンを配して、イギリスのパインウッド・スタジオで撮影を開始し、1998年6月に撮影を終了して、編集を終えた直後の1999年3月7日にこの世を去った鬼才キューブリック監督の最後を飾る問題作である。
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曽根田 憲三(相模女子大学教授) |
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■この映画の英語について
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Eyes Wide Shut とは「目は見開いたまま心は閉じている」とでも訳すのだろうか、医師ビル・ハーフォード(トム・クルーズ)と妻アリス(ニコール・キッドマン)が結婚9年目の夫婦を「演じた」この作品はR指定の映画とはいえ言葉が簡潔でモラル的であり、日本の私小説の感すらある。そして俳優が役割に徹して感情を押し殺しているだけに、かえってセリフは丁寧で形式的でもある。キューブリックはハーフォード(ハリソン・フォードに由来する名らしい)をメvanillaモ
Americans(アメリカの平凡な家庭)と想定している。ニューヨークのアッパー・サイドやグレニッジ・ビレッジ界隈を舞台に、ベビーシッターに子どもを預け夫婦で外出したり、妻の不条理な戯言を軽くいなしたり、職場、バー、コーヒーショップでの会話など、セリフは意外と日常的であり、またゆっくりと一言一言意味があるかのように発せられるのでとても聞き取りやすい。
アルトゥル・シュニッツラーの『夢奇譚』(Traumnovelle, 1926)を原作としたこの映画では where the rainbow
ends など、意識下に語りかけるような謎めいた言葉、フロイト的夢解釈では割り切れない妻のセリフ、現実を異化する沈黙、そして「仮面
をかぶった」日常生活の言葉が現実と夢との境を曖昧にしている。瞬きを思わせる視線の遮断に始まり、唐突な瞬きに終わる「レンズを開けたまま暗闇を撮りシャッターを閉じた」映像、あたかも神が創った劇場で役者が棒読みしているかの様なセリフ、観客はラビリンスに迷い込み、不安とパラノイアに満ちた主人公の旅の傍観者とならざるを得ない。そして不思議とギリシャ神話の英雄オデュッセウスが妻のもとへ帰りつくまでの彷徨と重なって見えてくる。たとえば物質的栄華(クリスマスパーティ)、すべてを忘れる麻薬(ODするフッカー)、父の死んだ婚約者のいる王女(患者の娘)、夜の歌で人を惑わすセイレーン(街の女やニック・ナイチンゲール)、妖術でまわりの男を動物にかえる魔女(レインボー貸衣裳店の娘)、冥界への旅(川を越えて二又の道を行くタクシー)、肉欲の饗宴、死と接触と贖罪、そして再生への希望といった神話的構造が浮かび上がってくる。つまり開業医ビルのクリスマス前のある日の放浪は、現実レベルではモラルを逸脱した愚かな行動であるのだが、言葉を通
して目に見えない精神世界へと関わっている。西洋の精神風土では真実探究の喩えとして性的欲望追求が描かれることがある。夜の儀式へのパスワード
"fidelio" はラテン語で「忠誠」のことだが、妻の「誠実」に対する疑いから始まるビルの精神遍歴も「真実」探究の旅と言えよう。何度も繰り返される
to be perfectly honest など、「真実」を強調する文章が形作る虚偽の世界、そしてふと合理的精神では割り切れない人と人とのやさしさや悲しさ(My
love for you was both tender and sad)が囁かれるという謎の「現実」。そして何が「真実」なのかは観客にゆだねられている。結末の謎問答(Alice
: There is something very important that we need to do as soon as
possible. Bill : Whats that? Alice : Fuck.)の最後の4文字は、文字通りの解釈の他に、頭文字の遊び、ある語のそれぞれの文字で始まる言葉を並べて文を作る「アクロニム」(Acronyms)という遊びでもあろう。FUCK
は Faithful to you(U), Christiane Kubrick というキューブリックの妻への遺言かも知れないし、Faithful
to the universe in the coming K(1000)「来たるべき千年宇宙に忠実たれ」という私たちへのメッセージかも知れない。
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及川 一美(慶応義塾大学講師) |
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■目次
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1. |
As Good As That |
すごく楽しい |
……………… |
8 |
2. |
You Saved My Ass |
私の窮地を救ってくれた |
……………… |
22 |
3. |
Not the Jealous Type |
嫉妬するようなタイプじゃない |
……………… |
32 |
4. |
How Good of You to Come |
来て下さってありがとう |
……………… |
46 |
5. |
Fidelio |
フィデリオ |
……………… |
56 |
6. |
A Cloak |
マント |
……………… |
70 |
7. |
No Turning Back |
取り消すことはできない |
……………… |
82 |
8. |
Things Change |
事情が変わった |
……………… |
96 |
9. |
Life |
人生 |
……………… |
110 |
10. |
I'll Tell You Everything |
君に何もかも話す |
……………… |
120 |
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■コラム
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キューブリック監督について |
……………… |
20 |
アカデミー授賞式追悼特集から |
……………… |
44 |
トム・クルーズ/ニコール・キッドマンについて |
……………… |
54 |
キーワード |
……………… |
80 |
病気のときの英語表現 |
……………… |
108 |
マニアのための見どころ |
……………… |
118 |
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■リスニング難易度
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評価項目
| 易しい(1) → 難しい(5)
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・会話スピード
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・発音の明瞭さ
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・アメリカ訛
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・外国訛
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・語彙
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・専門用語
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・ジョーク
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・スラング
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・文法
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合 計 |
27点 |
( 16以下 = Beginner, 17-24 = Intermediate, 25-34 =
Advanced, 35以上 = Professional )
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